てんから庵閑話 アァ…奥武蔵の渓


嗚呼・・・奥武蔵かな (鼻毛のおっさんと蜘蛛の巣と堰堤と蝦蟇と) 名栗川水系 人見入り


 此処は奥武蔵の小谿である。今までに入ったことはない。
流れを眺めれば水量もそこそこで渓相も良い、期待に胸は膨らんだ。

 勇んで谿に沿う荒れた林道をヨロメキながらスーパーカブを走らせた。
暫らく行けば、十bもある檜の大木が二本道を塞いでいる。
“これは、越えられんなァ”
思案しておると、下の谿からオッサンが上って来た。
『悪りいネ 悪りいネ、今どけるからョ チョット待っててよネ』云う。
下の山ノ神に今日のお参りをしてきたのだそうだ。

 オッサンは一風変わっていた。
作業服のボタンも一つも閉めていなかったし魂消たことに作業ズボンのジッパーは全開していた。
“さても下で何をしておったのか・・・”と思ったが、それは下司の勘ぐりであって只に暑いからであるらしい。
ニッコリと微笑んだが、口には歯が殆んど無く洞穴の様で下の前歯が二本だけ黄色く突き出ていた。
そして、鼻毛の豊かさには実に魂消た。
見事に白黒の霜降り毛で暗い穴の中から密生して外に伸びていた。
摩訶な植物が暗い穴の中から明るい光を求めて伸び出しているように見えた。

 オッサンは十分程もチエンソーを唸らせて丸木を三等分して道の脇に寄せた。
『アァ カッタリイ、悪りかったネ。 釣りかィ でもキット釣れねえョ、近頃ここで釣れたって話しィ聞いたことがねえシ。
昔ゃョ下はヤマメで奥はイワナが居たんだよナ、子供の頃はョ大人は上へイワナ獲りに行って俺らァ下でヤマメェ獲
ったんョ。学校から帰って来ちャ獲ったんョ、そうすんとバアチャンが焼いてくれて次の日の弁当のオカズよ。
食いもんがネエ時代だったからョ。 アァ・・・ ダンナも同んなじ年頃だんべ。
居なくなっちまったいネ、山が崩れんからしょうがネエけんど堰堤を造ったんべ、セメントの灰汁でョ居無くなっちまった。
それとョ 川ん中の大石ョ、皆んな庭石にすんで上げちまった、金ん゛儲かるってョ。俺もやりゃぁよかったョ。
魚だってョ、石の近くに棲みてえョね こういう瀬じゃあョ棲みづれえべエ。 だからョ 俺りゃ 釣れねエと思うョ』
霜降り鼻毛のオッサンは気さくでよく喋るいい人であった。

 オッサンが朝のお参りをしたという山ノ神に参じて渓に降りた。
なかなかの渓相だ、だが振り落とす毛鉤には何の反応もなく、只に流れた。
早速に堰堤がある、見上げれば直ぐその先にも立ちはだかっているではないか。
二つ目の堰堤を越えるとまたもや堰堤があった。、そして、その先にも、またその先にも堰堤はあった。
幾つかの枝谿を見送って “もうこの上はなかろう”と越えると、またまた在った。
水量も減ってきて“もうこれが最後だろう”と巻けば、まだ堰堤はあった。
ついには高い堰堤を前にして越え行くことを断念した。 断念したというより体力に限界がきて挫折したのだった。
メモも見れば、なんと二十三基もの堰堤を越えたのだった。
一番に古い堰堤が昭和五十三年製で一番に新しいのが平成十七年製であった。

 堰堤と堰堤の間は長くても五十b程であろうか。 堰堤上は瀬なのだが直ぐに好い具合の落ち込みがある。
其処は木々が繁って必ず蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
何とか頑張って、ここというポイントに毛鉤を落とすと、水面に落ちずに中空の蜘蛛の巣に引っ掛かった。
顔や体にも蜘蛛の巣は沢山に絡まった。
蜘蛛の巣と格闘していると、そのポイントは騒がせてしまって駄目になった。
辟易して篠を二b程切り取って蜘蛛の巣払い竿をこさえた。
これを左手に持って先ず蜘蛛の巣を掃う、からして右手の竿を送り出して毛鉤を落とした。
そんな訳だからヤマメもイワナも全く釣れなかったしあたりも無かった。

 確か、十八番目の堰堤と十九番目の堰堤の間であった。
一b程の小滝があって下は深壷になっていて透かし見れば大きな沈み石もある。
ここにいなきゃこの渓にイワナは絶対に棲んでいない…と思わせるポイントだ。
“気取られてはイカン”と篠の蜘蛛の巣取払い棒は使わなかった。
乾坤一投、毛鉤を白泡に振ると “アァ 無情…” 毛鉤は途中の蜘蛛の巣に引っ掛ってしまった。
“クソッ!”と身を捩ったところで顔一面に蜘蛛の巣が覆い掛かってしまった。
こめかみの処で蜘蛛の蠢く嫌な感触もする。 竿を放り出して顔の蜘蛛の巣を拭い去った。

 ガッカリして竿を拾いあげると、なにやら重い。
“オャ!”と竿を立てると凄い引きではないか。
ブルブルと重く震えて石向うへグイグイと引き込む。
“イワナだッ!! この引きは優に優に尺を超える大物の引きだッ!”
グイグイと半月に撓う竿を騙し騙して引き寄せた。
“…?…! かっ 蛙だッ!” それも大きな蟇蛙だ。

 これは困った。
毛鉤を咥え放しで放逐するのは可哀想で気の毒だ。
手拭いで蝦蟇を押さえ込むと、なんとも気味悪い感触だ。
それに背中のニキビのような突起から白い汁が出てきて異様な匂いがする。
蝦蟇の油が目に入ると目がつぶれるぞ・・・誰かが云っていたのを急に思い出した。
幸い上顎に掛かっていたスレ毛鈎が外れた。
そんな思いをした蝦蟇は“アレ 喰った虫は何処?”とばかりに逃げもせずにキョトンとしていた。


 テクテクとシオ垂れて林道を下ると、霜降り鼻毛のオッサンがまだ木を切っていた。
『お帰りョォ 釣れたかい?』 と聞く。
『何ぁんにも釣れませんでした』 まさかプライドの高い私には、蝦蟇を釣ったとは云えない。
『そっかァ やっぱ居ネエんだなァ、此処の街道をョ 五キロ行った右からの沢へ行ってみィ 奥行きゃァ天然のイワナが居るよォ』
歯の無い口を開けて気の毒そうに笑った。

 このオッサンは、やっぱいい人だ。



                                    平成二十年(2009) 夏.








戻 る

inserted by FC2 system