爺 てんから庵閑話 原全教の想念に・・・、
原全教 の 想念に・・・、
己れ爺、てんから竿を背負うて奥秩父の山峪を幾星霜を辿り巡るに、 其処にある自然の趣を、悲しいかな矮小な心根で感ずるに 原全教を去れることはありません。 原全教氏の想念に少しでも近くに 少しでも感じ触れようとする逍遥の旅でもあるのか・・・と。 此処は安谷川の上流 川浦谷の入り口です。 右岸から烏帽子谷が出合って林道橋を潜り遡れば 両岸が迫って七つ瀑の悪場通ラズの始まりです。 この先少し 左岸からシアン沢の出合う先へ、私は足を踏み入れたことがありません、「此処へ来てはいけない・・・」と 声がするのです。 随分の昔 川浦谷の通ラズ“七つ瀑の悪場”で岩を掴み損ねて別界へと去った 釣り友の霊声であるようです。 忘るも出来ず・・・、まだ若かった釣り友は 原全教の書を離さず 目を輝かせて奥秩父を語っていたものでした、己が情念であるかのように。 若くして後家になってしまった婦君は、涙してそっと寝棺に「奥秩父正篇・続編」を添えたものでした。 只・・・、其れも此れも 時は流れ そして過ぎ去ったことなのです・・・、其れもまた現実なのです。 |
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原全教 氏 大正の末から昭和の初期に奥秩父の山々峪々を 破れズボンに脚絆を巻いて経巡った。 「洵に秩父の山に登り谷へ入り、山村を訪ひ、或はその山を想ひ谷を想ひ、又箪に人を想ひ面影を偲ぶのみにても、 登山者として人間として、私と云ふ者全部の身のうちに、絶大の幸福感の渦巻くを覚える。 又いつも私は、秩父の山村が何故自分のふるさとでなかったのかと、身の薄倖を悲しむ。」 と冒頭に記す。 |
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何度取り出したことだろう 何度同じ頁を繰ったことだろう 何度同じ行を見返したことだろう、原全教が どう感じ どう想念したのかを知りたくて・・・。 | |
下 「奥秩父 正編 初版正巻」 朋文堂 発行 昭和八年七月十日 謹呈直筆文字 上 「奥秩父 続編 初版正巻」 朋文堂 発行 昭和十年七月二十三日 本人写真 原全教=明治三十三年(1900)生まれで俗名は坂部武二、原全教の名は若くして(十七歳〜)雲水修行期間の僧名。 当時は吏僚(東京市役所)だったそうな、或る時は新宿の駅ホームで着替え夜行で奥秩父へと向う。 其の山行は 300と余日旅、繊細な感性での全てが記されて或る。 (後年に “奥秩父研究”“秩父山塊”“奥秩父回帰”等の文献も発表) 平成4年(1992) 記. |