てんから庵閑話 独り 語り・・・、


 語 り・・・、

 ふっと したことから想い出している 随分と昔のことなのに・・・


彼は・・・ 今も 一緒に釣りをしている

彼は・・・ 何故 あんなにも険しい処に独りで 行ったんだろう
何故に あの瀑を 巻き途を行かずに 登ろうとしたんだろう

彼の口癖は 「そうだね そうだね そうだったね・・・」 だった

彼は・・・ 今も 一緒に釣りをしている。

 遡るに厳しい 大洞谷を行くとき
「此処は 危ないから こっちから登ろうか・・・」
「ほら 此処の淵を見てごらん深いね きっと 二尺の主岩魚が潜んでいるよ・・・」 と 云うと
“そうだね そうだね そうしよう 危ないね・・・”
“そうだね きっと 潜んでいるね・・・” と 云う

 入川の股ノ沢林道を 柳小屋へ向かうとき
「遠いいね 遠いいね 少し休もうか ほら白い花が咲いているよ・・・」 と 云うと
“そうだね そうだね 疲れたね 本当だ 可憐な花だね・・・” と 云う

 滝川の杣道を 釣橋小屋へ向かうとき
「ほら 見えて来たよ 火打ち石岩だよ・・・」
「此処の大岩で 二人で弁当を喰ったっけ 覚えているかい・・・」 と 云うと
“そうだね そうだったね 僕だって 覚えているよ あれは遠い昔の春だったね・・・” と 云う

独りで弁当を喰っていると 涙が止まらない

谷風が拭いてはくれるけれども・・・


彼は・・・ 今も 何時も 一緒に釣りをしている

だから・・・ 何時も 何時も・・・ 彼と話しながら 奥秩父の谷を行く。




                                   
平成6年(1994) 記.



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