爺 てんから庵 閑話 何時からか岩魚に釣られて・・・
何時からか 岩魚に釣られて・・・ 浦山川水系 市兵衛沢
いつの頃からであったろうか・・・、 岩魚釣りの筈が、岩魚に釣られてしまうようになったのは。 大久保谷に沿う杣道を外れ栂の大木の間を通り、背丈を越すほどのスズタケを掻き分け掻き分けて、随分と歩いて来たもんだ。 こんな山奥のこんなに水の少ない流れは、きっと冬の間は凍てついて流れも止まってしまうんだろう。 “岩魚達は、棲んでいるんだろうか…。” 棒毛バリを結んで、そっと一尺の深さもない落ち込みの溜まりの岩陰に落としてみる。 “そ〜ら 出ておいで。” ・・・・・・。 “やはり、棲んではいないんだろうか…。” “いいや、餌が乏しくて五寸にも満たない奴は、よそ者の私を石の隙間からじっと息を潜めて見ているんだ。” “まあ、いいさ…、それでいいんだ。” “人間って動物は初めて見たのかい。” “ようく憶えておくんだぞ、こんな姿形の人間が近づいて来たら、直ぐに石の下に隠れるんだ。” “それに、そこに流れている虫な…、それはネ毛鈎といってね、嘘の作り虫なんだよ。腹が減ったからといってネ、喰っちゃぁ駄目だ。” “餌は少ないけれど、此処はお前達の桃源郷だ、何時までも元気に暮せ・・・” 何時の頃からだろう、こんなふうに岩魚釣りが岩魚に釣られてしまったのは…。 “それも、まあ… いいさ…。” 棒毛バリ 魚を誘い出す為だけに使う、鈎の曲がりから切り取った毛バリ。テンカラ師独特の浮かせ毛バリで「釣ラズバリ」と呼ぶ人もいる。 平成十九年(2007) 春. |