爺 てんから庵閑話 川の中の狂女・・・、
川の中の狂女・・・、
良く晴れた日の午後だった記憶がある。 『気触れだ!。』 『気触れ女が居るどぉ!。』 家の下の橋の上で騒ぎ声がする。 俺は駆け足で見に行った。 橋の欄干から下の川を覗くと、 真っ裸の女の人が腰まで水に浸かっている。 『私の赤ちゃんを、返してぇ!。』 『私の赤ちゃんは、何処ぉ!。』 『私の赤ちゃんわぁ、私の赤ちゃんわぁ。』 叫びながら、泳ぐように水の中を歩いている。 『いけねえ、あっちは深ん淵だ、引き上げべえ。』 ミッちゃんの父ちゃんと、ヒデちゃんの父ちゃんが駆け出した。 駐在さんが自転車で飛んで来た。 『見せもんじゃねえ、見せもんじゃねえ、皆んな帰れ!。』 と叫んだ。 俺は聞いた。 『母ちゃん、赤ちゃん、誰が盗っちゃったんだんべ、可哀相だがぁ、返してやんなくっちゃぁ。』 母親が何と答えたのか、今は覚えていないのです。 此の出来事が、春だったのか夏だったのか冬だったのかも、覚えていません。 つい先だって、ミッちゃんのお父さんが九十五歳で大往生した時に突然想い出したのです。 只、女の人の白い背中と丸いお尻が、鮮明に目に焼きついているのです。 ずいぶん昔の話です。 平成4年(1992) 記. |