爺 てんから庵 閑話 藪沢のくノ一
藪 沢 の く ノ 一 ・・・、
名栗川水系 日向沢
真夏の或る日、名栗川の藪沢へ釣りに行った。 梅雨が明けてからというもの、毎日のように大気不安定とかで午後になると決まって雷鳴が轟いて雨が降る。 雷は恐ろしい、突然に爆弾でも破裂したように光ったかと思う間もなくドッカンとくるからカーボン竿を放り出して臥せっていなければならない。 降る豪雨も恐い、行きに膝下で渡った細い谿川が茶色の濁流が轟々と流れて対岸に戻れなくなってしまう事もあるからだ。 だから、暗雲がモクモクと湧いて出ても、なんとか逃げ帰れる岩魚の棲む藪沢を選んだのだった。 林道の沢の入り口に着くと、ツートンカラーのパジェロミニが停まっていた。 “マァ…釣れても釣れなくてもよいのだから・・・”と沢を遡ることにした。 毛鈎を振り振り一時間ほども沢を辿ったが、やはり岩魚達の気配すらない。 絶対に釣れなかろうと判っていて竿を出すのも、やはり味気なくなってきた。 それにパジェロミニの持ち主であろう先行者の濡れた足跡は、あちらの岩の上、こちらの石の上にとだんだんと鮮明になってきた。 居た 居た・・・。 白いTシャツに紺色のベストを着込んだ単独者(ソロ)だ。 長い竿を差し伸べてチョウチン釣りをしているらしい。 先様は、釣りに没入しているようなので、暫く様子をみることにした。 そのうち、合わせをくれたと思ったら、五寸ほどの岩魚がヒラヒラと掛かってきた。 先様は、手に納めて見入っている風だったが、“寸足らず”と思ったのか流れにリリースしたようだ。 どうも先程から後ろ姿を眺め続けているが、小柄な体躯なのに腰が丸くて大きいような気がする。 頃合を見計らって「チリン チリン」、熊除けの鈴を振り鳴らして存在を予告した。 『どうですか〜 出ますか〜』 声をかけた。 ギクリとして、こちらを振り返ったが無視してそのまま行く様子。 “アララ シカトしやがって〜” “拘るのはよそう”と木陰の岩の上で煙草をふかすことにした。 そ奴の方を見ると、なんと木陰の隙間から此方を伺い見ている様子だ。 “嫌な奴だなァ”と思ったが、“此処で飯にしよう…”と少し早い昼飯にすることにした。 “やはり 谿で喰う折寿司はうまいなァ”冷たい寿司は何時も実に美味い。 (私のザックは、アイスボックスが付いている二層のやつで、此処に何時も保冷剤を入れて好物の寿司を持って来る) 『こんにちわ、先ほどは失礼しました。』 “女だ!” 何と何時の間にか妙齢な女性が帽子をとって挨拶をしているではないか。 歳のころは三十歳前ではなかろうか“若い!…” 日焼けした目鼻立ちはハッキリとして“色は黒いが可愛い!…”、と思い少しドギマギしてしまった。 『私、女だてらに岩魚釣りにハマってしまって・・・』だそうだ。 『餌ですか?』聞くと『毛鈎です』と云う。 自分で巻いたという毛鈎を見せてもらったり、見せ合ったりと、毛鈎談議なぞに花が咲いてしまった。 なにしろ、こんな若い娘さんと二人きりで会話をするなんぞは、小遣いが溜まったときに行くスナックの美鈴ちゃんぐらいのものだから、 我は色情が漂ってしまってはいなかろうか・・・とか、女の色香を感じてはならぬ・・・、と歳甲斐もなく緊張してしまった。 『私は充分に楽しみました。せっかく来たのですから、ここからは先に行ってください。』という。 『いいえ、様子を見にきただけですから…もう帰ります。 どうぞ、お気をつけて…また、どこかでお遇いしましょう。』 少し(かなり) 残念な心持がしながら、お別れして帰ってきてしまった。 帰り道は、気がつけば鼻歌なんぞを唄っていた。 “まさか、一緒に帰りましょう。なんて追って来はしまいか…”と時々振り向いてもしまった。 “若い女性が山奥の沢で独りで岩魚釣りをするなんて、やはり危険が伴おうなァ。どうりで返事もしないわけだ、ソット覗いて見たら、 ひとの好さそうなジジイだったから「これなら、押し倒される心配はなさそうだ…」 と出てきたんだろうナ” ちょっと嬉しくかなり寂しくもあったが、尺上の岩魚が掛かった時のような満足感に浸れた。 沢の入り口のツートンのパジェロミニは停まってあった。 其の日の夕方はもの凄い雷になった。 “無事に帰ったろうか・・・”などと、余韻にも浸れた。 暫くの間、また岩魚釣りに専念してしまうことだろう。 鏡に映して、己が姿を省みた。 “ウ〜ム 此れは正しく 野良の爺の姿だ” “地下足は止めようかナ…”なんて真剣に思うのであった。 平成25年(2013) 盛夏. |