てんから庵閑話 六助沢 慕情・・・、


六助沢 慕情・・・ 中津川水系 六助沢


 原全教の紀行「冬の秩父・中津川より神流川へ」のことである。

当時は(昭和の初期)中津川の支流の広河原沢の名はまだ付いていなかつたようである。
今の山吹沢を合して流れる広河原沢は神流川と称し、両神山から来る金山沢を合わせ流れて
中津本谷へと出合う。
六助澤は、今の名の広河原沢の下流に左岸から合う支流である。

章は、神流川沿いの雁掛トンネルへの入り口を右手に見送っての辺りからであろうか・・・。
憐憫の情は時に恋心の情に変わるもの、愛おしさは時に憐憫の情に変わるものであろうか。
それとも奥深い山中での人恋しさからであろうか。
歳老いてしまった我にても然りと思う時もあるのだが・・・。
男も女も同じであろうと思うのたが・・・さて判らない。

原全教の著書
奥秩父から引用する。
『なほ川邊を行く。十分くらゐでまた右岸へ移る。
道はもう目に立つ岩壁もなく平凡であるが、何処となく源流地らしい奥深さが漂ふてゐる。
河原に生ひ茂った矮小な樹林中を、二人の杣がすたすたと先に立って行く。
たそがれのやうな重い頭も軽く、疲れた足も引き摺り引き摺り追ひかけて行く。
原始を求めて山中深く分け入りながら、やはり妥協の人の世こそ恋しくなるのが常である。
後ろから近ずく足音に気がついて振り返ったのをみて、女と知るまでに多少の時間があった程、
二人共原始的風貌であった。
でもそれが母娘である事は容易に察せられた。
そして予期した事とは云ひながら、娘と視線がかち合ったときは、余りに近距離であつたために
一寸狼狽した。
この人達は六助澤で小屋を掛けて、炭焼きをしてゐる人の家族であることも知れた。
「こねい山家ぢや、ゑい正月もできねいだ」と、母が娘と私を顧みれば、それを受け取って淋しい
笑いを、母と私に等分に投げかける娘の顔は、それでも若々しかった。
私はもう堪らない想ひであった。
世間を超越して暮らす山稼ぎの人々の、都会の正月を味ひたいと云ふ、本能的欲求を忖度する
とき、軽い世間話を交して行きながらも、乾物の鱈のやうな頬を幾度濡らしたか知れなかつた。
・・・・・・・・(中略)
さうかうするうち六助澤の出合いへきてしまつた。
・・・・・・・・(中略)
扇を半開きにしたやうな地形をなす源頭を、左寄りに登って、地図上で千米くらゐの地点に当る
のが母娘の家であった。』



晩秋の日、母娘の面影と原全教の感じた情感に浸りたいものと。
広河原沢を少し遡り、六助沢を遡ってみたのだけれど。
母娘の家の佇まいは少しも残ってはいなかった。
水量の少ない沢筋には、幾つかの崩れかけた石積みの炭焼き跡が苔生していた。
間もなく冬の訪れる細い流れは、落ち葉を浮かべてカサコソとただ淋しく流れていた。

時の流れは、時には情緒も趣きをも消し去ってしまう薄情ものであるのか・・・。
或いは、我の趣を悟れぬ感受性の乏しさの為か・・・と。
想い偲べぬことを、嘆くばかりであった。

                             平成14年(2002) 秋.

  此処、片門戸と呼ばれる岩峰の下に六助沢は流れ出て広河原沢に注いでいる。



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