てんから庵閑話 続・六助沢慕情


続・六助沢慕情 中津川水系 六助沢



 タイトルの「六助澤、慕情・・・。」
四・五年の前にも記した。
そしてまたも記す、それ程に私にとって憧憬の谿だった。

 原 全教の紀行「冬の秩父・中津川より神流川へ」の一部を著書「奥秩父・続編」から引用する。
語りは、八丁金山林道の雁掛トンネルの下、今の広河原沢に沿う林道の分岐り辺りから始まっ
ている。

『なほ川邊を行く。十分くらゐでまた右岸へ移る。
道はもう目に立つ岩壁もなく平凡であるが、何処となく源流地らしい奥深さが漂ふてゐる。
河原に生ひ茂った矮小な樹林中を、二人の杣がすたすたと先に立って行く。
たそがれのやうな重い頭も軽く、疲れた足も引き摺り引き摺り追ひかけて行く。
原始を求めて山中深く分け入りながら、やはり妥協の人の世こそ恋しくなるのが常である。
後ろから近ずく足音に気がついて振り返ったのをみて、女と知るまでに多少の時間があった程、
二人共原始的風貌であった。でもそれが母娘である事は容易に察せられた。
そして予期した事とは云ひながら、娘と視線がかち合ったときは、余りに近距離であつたために
一寸狼狽した。
 この人達は六助澤で小屋を掛けて、炭焼きをしてゐる人の家族であることも知れた。
「こねい山家ぢや、ゑい正月もできねいだ」と、母が娘と私を顧みれば、それを受け取って淋し
い笑いを、母と私に等分に投げかける娘の顔は、それでも若々しかった。
私はもう堪らない想ひであった。
世間を超越して暮らす山稼ぎの人々の、都会の正月を味ひたいと云ふ、本能的欲求を忖度す
るとき、軽い世間話を交して行きながらも、乾物の鱈のやうな頬を幾度濡らしたか知れなかつた。
健康と勤労の神聖さを讃へる私の言葉も、動もすれば月竝式の上調子に、水音と共に空に流れ
去るのを恐れるのであった。
さうかうするうち六助澤の出合いへきてしまつた。
・・・・・・・・(中略)
木の枝や崩れた岩等を踏みつけ、押し均した歩きよい小徑をたどるやうになる。
ここは全く人工によつて岩を切り開鑿したような狭い幽谷である。
そぞろに忍ばれてならないのは伐採前の幽趣であった。
また六助澤といふ澤名に關する傅説めいたものについても、色々と勝手な妄想を繞らしてゐるとき、
「去年はあの釜だつたに」と、母なる小母さんが一つの壊れた大きな釜を指して述懐してゐる。
それは私に聞かせてくれるやうでもあり、娘に話してゐるかの如くでもあった。
そして、それを加へてこの小さな澤沿ひにも十箇所くらゐは炭釜がある。
またそれに携はる人も十家族はあると聞いて、古代遊牧民の生活その儘のこれなどの人々の、
何処からともなく相寄り、尾根と云わず谷と云わず集團をなし、立木が尽きてしまへばまた散り散り
に新しい職場と起居の巣を求めて離れ去るその生涯を、深い哀愁を以って考へないでゐられなか
つた。
扇を半開きにしたやうな地形をなす源頭を、左寄りに登って、地図上で千米くらゐの地点に当るの
が母娘の家であった。』






         
                     



 そんな六助沢をニ十年近くの程のまえ訪れてみたことがあった。
片門戸と呼ばれる岩峰から入り込み、やっとに抜けられた赤茶色の岩壁
の狭間を行くと、崩れた炭焼釜が谿に沿って点々と在った。
そして赤茶色の石ころの転がる細々とした流れには小さいながらも赤い
岩魚が棲んでいた。
きっと、此処の沢筋で炭焼きを営む人達が放逐したのだろう。

 一つの釜を認めれば“ああ 此の釜が母娘の釜だったのだろうか”、一つ
の台地を認めれば“ああ 此処が母娘の棲む小屋だったのかもしれない”
と古への感傷に浸れた記憶がある。

 そして秋の始まり、今また訪れてみた。
“何だ ! 、この有様は・・・”
岩峰の屹立する広河原沢との出合いはコンクリートで固められいた。
やっと通りぬけた赤茶色の岩壁の狭間は堰堤で塞がれていた。
道は遂に上州との境の天丸山を巡って上野村へと抜け通じたのだそうだ。
谿の流れもいよいよ痩せ細っておかしな水垢さえも付いている。
“母娘の炭焼釜の石組みはどうなったのだろうか。”
“母娘も目にしていた筈のあの赤い岩魚達はどうしているだろうか。”
谿に沿った踏み跡もなくなってしまっていた。
塞がった堰堤を巻き上がる趣も気力も失せて六助沢を後にしなければな
らなかった。


母娘が見たらどう思うことだろう。

  それはないか・・・。
全ては八十年も前の遠い古へのことなのですから。


                   平成十八年(2006) 初秋.



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