てんから庵閑話 奥山で唐突に声を掛けては・・・


奥谿唐突けては・・・いけな
大洞川水系 和名倉沢


  其の年の夏の始めの頃のことであった。

 杣道を喘吐しながら、ひたすらに二時間ほども歩いて、やっと谿に降り立った。
“あと三十分で大滝だな・・・” 独り言を云いながら谿を遡った。
そして、和名倉沢の大滝のある通ラズに着いた。

 何時来ても、大淵の続く通ラズは険悪だし、四十メートルの瀑布は豪壮だった。
右岸の小尾根を高く喘ぎ喘ぎに巻き登って、やっとに滝の落ち口上に出た。

 今日は、“大滝の上にも岩魚が棲んでいる・・・”
と云う噂を聞いて、“大滝が魚止めと思ったが、その上にも棲んでいるのか・・・”確認に来たのだった。

 滝を越えた上の暫く先に気持ちよい小さな平坦地がある。
腰を下ろして大事に背負って来た寿司を食いながら、テンカラ竿に仕掛けを結わいた。
毛鈎を振り振り、舟小屋窪出合いの滝を見送って上の通ラズを抜けても岩魚共の挨拶は全くなかった。
“やっぱり 噂はガセだつたのかなぁ・・・”

 遡るうち、先行者が居るのが知れた。
辿る岩の上には点々と濡れた足跡があったからだ。
“よくも、こんな上まで来たもんだ・・・”自分のことを忘れて思った。

 “居た 居た”
赤いヘルメットの若い男が一人、滑滝の作った壷に竿を出しているではないか。
“すると すると、大滝上にも岩魚は棲んでいるのだったか。”
邪魔をせぬように静かに後ろから近づいた。
『ドオモォ〜!』 滝音に打ち消されてはいけないので、大声きな声を掛けた。
若者は一瞬肩で「ビクッ」とした。
そして暫くして、ゆっくりと此方を振り向いた。

ウギワーッ!!』 若者は途方もない大声で叫んだ。
ワーッ!』 私もそれに魂消て叫んだ。
ヒトかァ、ヒトだいね!』 若者は云う。
ヒト、ヒト、そう人だよ 人間!!』 私は慌てて答へた。

 奥の谿では唐突に声を掛けては、いけない。
岩の上から転がり落ちてしまうかもしれない。
心臓の弱い人は、ショック死してしまうかもしれない。
近寄る時は、遠くからわざと音を立てて知らしめなければいけない。
しかし・・・若者は、突然に後ろに居た私を、何と思ったのだろう。


若者に釣果を訊ねると『大滝を越えてからは、当たりもありませんでした。』 だそうだ。
『驚かせてすまなかったです。 ところで、私のこと何と思ったんだい』
『熊か、亡霊か・・・と思いました。』
『・・・・ ・・・・。』

 声を掛けた言葉が ドウモォ〜 であったのがいけなかったのか。
“奥山で人に近づくときは、先ず熊除けの鈴を振り鳴らすとか、小石を態と転がすのが良いと思った。”
帰途が不安で、大滝の上に岩魚は棲んでいないことは、此の若者の話を信じることにした。


                                   
平成19年(2007) 初夏.



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