てんから庵閑話 我ら爺の谿は平穏か…

谿平穏か・・・中編 滝川水系 某谷

  我ら爺達の朝は早い。

  幽谿の冷え冷えとした空気に身震いして目が覚めたらもう朝だった。
 テントの中には誰も居なひ、時計を見ると午前四時だった。
 外は白々と明るく靄が谿間を埋め尽くしている。

  “シマッタ何か云われるナ”と外へ這い出てみると、辺りに誰も居ない。
 『オ〜イ』呼んでみた、『コッチダ〜』と上流の方で声がする。
 急いで地下足袋を履いて草鞋を着けて流れを遡ってみた。
 大きな深い淵尻で、三人がしゃがみ込んで何かを見ている。
 覗くと、大きな岩魚だった、優に尺を越えた歳無しの雄岩魚だ。
 『花さんがょ、此処でこんなの釣りゃがったのよ。』とクマ爺さんが云う。
 よくよくとその姿を見れば、なんとなんと・・・。
 魚体は何やら薄気味悪く青白く、斑紋は白く大きく頭頂までにも虫食い模様がある。
 『何でこんなのが此処に居やぁがる、いっそ殺生してくりょうかぃ』花爺は呻いた。
 『いやいや魚に罪は無ぇ可哀想だ、放してやれ放してやれょ。』坂爺は云った。
 『そうだなぁ、コレお前あんましエッチすんじゃねえぞぃ。』と云って、流れに放した。
 魚は死刑を免れてユックリと背の白い紋様を見せながら、青い深場に帰って行った。
 『嗚呼、此処の谿も、もう駄目だな・・・。』
 我ら爺達は悄然として、下のテン場へと戻った。

  冷えた空気の中で喰うレトルトカレーは美味かった。
 そして、コーヒーを沸かした。
 爺達は紙カップの熱いコーヒーを啜った。
 『馬鹿奴らめが・・・ 馬鹿奴らめが・・・。』と誰かが呟いた。
 『密放流だな、此処の谿はもう駄目だ・・・馬鹿奴らめが・・・。』
 『何で俺達ゃ、こんなことしなきゃいけないんだろな。』云ってみた。
 『俺達ゃ、秩父のお山の大将だ!。』坂爺が云った。
 『そうか、秩父のお山の大将だったな。』少し虚しかった。

  我ら爺達は、対岸の滝に閉ざされた枝沢の我らの谿の無事を願ったのだった・・・。

  時計を見ると、まだ六時にもなっていなかった。
 谿々は、白い朝靄につつまれてまだ陽を通してはいなかった。


                       平成17年(2005) 夏.



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