てんから庵閑話 我ら爺達の谿へ…後編


爺達谿へ・・・後編  浦山川水系 某谷


 我ら爺の谿へ着いた。
狭い林道を終点までやっとに古い四輪駆動車は登り上がった。
そして、高い岩壁の下に車を停めた。
戻ったら、岩が落ち崩れて車が壊れていないかと心配であった。
相方の白髭爺は 『其の時は其の時、どうせ古い車だ』 云う。
確かにそうにはそうだが、薄情な言い草だ。

杣道を一時間半程も喘ぎながら歩いた。
此処は、荒川の支流の支流の枝谿だ。
十五メートル程の高さから何段にも滝を架けて合う我らの谿が見えてきた。
“うぅ〜む、水量が少ない、我らの放った奴の孫子は棲んでいるのか…”不安であった。
白髭爺の先導で、岩溝を水飛沫を浴びながら、右に左にと捩り登った。
やっとのことで滝上に上った、三十分もかかってしまった。
七年以上の前に来た時は、ヒョイヒョイと難なく登れたような記憶がある。
歳月の流れは正確正直であって非情だ。
『少し休もう…』 と云えば 『まだまだだ…』 と云う。
聞こえぬ振りをして腰を下ろしてリポDの高い奴を飲んだ。

『杣女さん!、居るよ居る居るゥ!』岩の向こうで大声がした。
『本当かァ、本当かァ』もうリポDの御利益が出たのか、元気よく走り登れた。
『其処の岩下にも隠れたし、向こうの白泡の中にも隠れた』
『そうかァ、そうかァ、あっちもこっちも隠れやがったかァ』
“そうかァ、十年以上も前に放した奴の孫子らが棲んでいたか…”感動した。
早速に棒毛バリを繋いで落ち込みの溜まりに落とすと、直ぐに八寸の奴が咥えた。
『やァ いい岩魚ですね。こ奴らの親の親を先輩達は放したんですよねェ』白髭爺は云う。
正しく、我らが放った岩魚の子孫だった。
朱斑の濃い奥武蔵タイプの赤岩魚だった。
白髭爺は五年程の前だろうか、夏に入川の裏股街道のゴンザの滝上で偶然に出逢ったのだ。
それからの仲間入りであったから昔のことは知らない。

竿を納めて、落ち込みを覗いては岩魚共が逃げ隠れるのを見たり、
岩に隠れて、コーヒー缶に詰めてきた縞ミミズのお土産を溜まりに撒いた。
何処からかワラワラと出てきて、撒いたミミズを咥えて走り隠れるのが、嬉しかった。

そうこうしているうちに中流域の難所だ。
三十メートル程の落差を五段の滝で整えている。
此処を登るのは神経をすり減らす。

白髭爺は難なく登り上り、中間の滝壺に竿を出す。
上流から落ちてしまって壷中で棲んでいる哀れな岩魚達を滝上に放逐してやろう、という訳だ。
暫らくして、六寸程のを『釣れたよォ〜』と云って、此方に見せた。
狭い釜壷には五匹も棲んでいた。
魚を生かし魚篭に入れて、右手の岩の割れ目を登って行った。
何と云う人だ、とても同い年とは思えん。
『俺は巻くぞ〜ィ』 と叫んで、木の根に縋って大きく巻いて登った。
やっとに上ると、白髭爺は既に握り飯を食っていた。
『素人が相棒だと時間を喰っていけないねェ』 と云う。
『俺も食おうかナ』と云えば『さあ 出発だァ』 と云う。
どうも此の人は、歳と共に意地悪になる種であるらしい。

毛バリを棒毛バリに替えて、咥え込むのを見ては面白がり。
縞ミミズを放り込んでは咥え去るのを喜んだ。
暫らく行くと、岩下の洞奥り浅場でピチャピチャと水音がする。
覗き込むと暗くてよく判らぬが岩魚であるらしい、それも尺を越えているようだ。
懐中電灯を点けて見ると居た。
我々の出現に慌てて竦んでしまっているらしい。
側線下の朱紋が、見惚れるほどに鮮やかだ。
カメラのフラッシュを光らせても動かない。
棒で追い立てると右往左往してから、やっと大岩の下に隠れて消えた。
『我々と同じに年寄りだが、人間様を見たのは初めてなんだろうな』
二人して大笑いをした。
私は、秩父イワナとよばれる奥秩父タイプよりも、奥武蔵タイプがより美しいと思う。

こうして、水量を二分する二俣に着いた。
二俣の其々は、暫らくすると水は枯れてしまう。
満足だった。
コーヒー缶に一杯獲った縞ミミズも、みんな撒いてしまった。
人の入った痕跡は全く無かった。
あるのは、水を飲みに降りて来る鹿道だけだった。
奴ら岩魚共が何時までも安穏に棲み暮らしてくれることを願った。
もう此処に来ることはなかろう、その必要もなかろう。
“今や、此処まで上り来れない爺達に、このことを詳しく話してやろう”思った。

岩魚共がお土産のミミズを食っている最中だろうから、為るべく流れから離れて谿を降り下った。


(お願い)
滝場の画像を載せることに躊躇しました。
秩父の奥域で此処に心当たりのある方、いらっしゃいましたら、何卒ご内聞にお願い致します。


                           平成十九年(2007) 初秋.


連なる滝の中釜に落ちてしまった気の毒な岩魚を
釣り上げて滝上に上げてやる白髭爺。














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