この間、台風が来た、余波で大雨が降った。
今年の冬は寒くて雪が降った。
『我らの赤岩魚の峪も増水したに違いない、愛い赤岩魚達は流れ落ちなかったろうか・・・』
我ら爺は心配した。
我ら爺は、林道の終点から五時間かけて此処、我ら爺の峪の入り口に着辿りいた。
今日は、荷の担ぎ手がおらず一番の歳若の私が夜営の品々を背負った。
細い山道を歩き沢身を遡りやっとに、我らの谷の入り口に着いたのだ。
荷物の軽い爺達は足取り軽く歩んだ、
重荷に喘ぐ私は一言の労わりの言葉も掛けてもらえずに耐えた。
喜寿を過ぎた長老の坂爺さえも富士登山記念の木杖を片手にして軽やかに歩んだ。
私は息が切れて息が切れて、転んだ真似をしては栂の大木の根元に座り込んで休んだ、
すると『遅いな〜日が暮れちまうじゃァないか』と云う、年寄りは人の不幸には薄情なことだ。
それから薄い踏跡で沢身に降りて巨岩と大石の転がる足元の危うい中を二時間も遡ったのだ。
東向きの谷は薄暗くなりかかった頃、やっとにテン場に着いた。
夜営の準備は皆がよく働ひた。
『俺、殺生してくるワ。』と云って、花爺が直ぐ上の淵へ岩魚を釣りに行った。
花爺は釣りの達人だ。
直ぐに八寸程の岩魚を人数分の四匹釣って戻ってきた、斑紋のおかしな雑岩魚だった。
幽谷の闇は早い、焚き火を燃やして雑岩魚を串刺しにして熾き火で炙った。
谷川の水で素麺を作って啜った。
私の背負ってきた日本酒を飲みながら雑岩魚を頬張った、
『俺の為に死んでくれてすまんなァ』クマ爺はそう云って喰った。
それから骨をよくよく炙ってワンカップに入れ骨酒で乾杯した。
直ぐに、お神酒も程よく疲れた身体に回った。
爺共は皆んな気持ちよくなってきた。
流れの瀬音と手拍子で、
花爺が“僕のミヨちゃん”を、大昔を想い出してか感情を込めて唄った。
クマ爺は“僕は泣いチッチ”を哀愁深く唄った。
坂爺は“予科練の歌”を威勢良く大声で唄った。
私は“昭和枯れススキ”を哀れっぽく唄った。
皆んな、40年も50年も前の青春小僧の顔だった。
皆んな、初恋や若い煩悩に悩まされた頃に戻れた。
宴は狭い峪中で、焚き火の燃え尽きる夜更けまで何時までもと続いた。
寝る前に、皆で便所とする所を定めて確認し合った。
前の時に、
他人様の用便を踏んでしまって『誰だ バカヤロウ もつと遠くにしろイ』と叫んで
トラブルになったことがあるからだ。
明日は、目の前にある対岸のあの滝を攀じり登って我らの峪へ行くのだ・・・、
かなりの難関だ、果たして爺共に登れるのだろうか。
赤岩魚達も、きっと待っているに違ひない。
気持ちが高まってか、疲れ過ぎてか、なかなか寝付けなかった。
(万が一、此の滝に見覚えのある方、内緒にし ソットしていて欲しい。)
平成17年(2005) 夏.