もう、かれこれ二十年近くも前の話です。
其の年の釣りも終ろうとする秋の始まりの頃でした。
此処は、中津川の枝峪の奥域の源流。
此処は、ほんの少しだけの地元の釣り人の他は踏み入ることのない静かな峪。
だから釣り師に脅されることもなく、赤く装う定岩魚達は安穏として棲み暮らしていたのです。
その頃の私は、釣り殺生の虚しさが昂じていて、峪へ行けども竿を出すのは稀になっていました。
その日は、何時もと様子が違っていたのです。
岩肌や大石の上には濡れた足跡がありました。
谷は、細い流れだから大淵は無く小滝や落ち込みがあって処々に小さな淵を成しているのです。
そのあまり深くない小さな落ち込みの溜まりには、木枝が投げ込まれていたのです。
“誰か遡って居る、誰が 何故に・・・”
随分と遡っても、なんと溜まりには全て木枝が放り込まれているのです。
“竿を出したとて岩魚共も喰い付くはずもなし、第一仕掛けが絡まってしまう” 独り言ちました。
『ダンナ、幾ら上に行っても釣れネェヨ』 突然に頭上から声がして、
岩の上から中年の男がグイと顔を出したのです。
『悪かったネェ、みんな木ィ入れちまったからョ 此処はもう釣れネェヨ』
男は降りて来た、とっても異様な風体です。
紺色の作業衣、頭に手拭で捻り鉢巻、地下足袋に藁縄がグルグルに巻いてあるのです。
ザイルを襷がけに幾重にも巻きかけているのも凄まじいし、
なを凄まじいのは、山刀と鉈を腰の左右にぶら下げていることでした。
“山賊に出くわしてしまったのか” と錯覚して恐ろしくもなりました。
『前は岩魚も居ていい峪だったんだがナ、釣り師が入りゃがってョめっきり減っちまった、可哀想なことョ』
『ハァ卵を抱えてんだ。だからョ、獲られねェように木ィ入れちまった。悪かったネェ 旦那下で釣んなョ』
云うだけ云って、ヒョイヒョイと岩から岩を伝って降りて行ってしまったのでした。
その翌年、なんと奥峪でまたもや此の男と出会うことになったのです。
そして、それからずっと付き合いが続いているのです。
そして、此の恐ろしい似非山賊は・・・、
私にとっては、得がたい“山釣りの師”となったのでした。
平成17年(2005) 初秋.
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