漂泊の記 豆焼の大滝を観に行く


滝川水系 豆焼大滝

豆焼沢は国界の雁坂嶺(2289.2m)に源を発し、1500m程の高低差を約4kmの流程で滝川の中流に出合うまでを駆け降る険谿。

 もう何度来たことだろう。 初秋の日の好日に、滝を見る為にだけでかけた。
名瀑で難所でもあるゴゼ滝・ホチ滝のある下流域は杣道でトウの滝までを敬遠し、上流の入口にある大滝を観に出かけた。
辿るは緊張感が緩められない、滝また滝で其の数知れず中滝小滝が連続して余裕もなく右岸左岸と巻き越えなければならないからだ。
大滝に辿り着けば“やっと 着いたか・・・”其の豪壮で繊細な姿にホットもするが、秋の短い陽の翳りには帰途に心を急かされてしまう。

 此れは、昭和の初期に原全教が記した著書「奥秩父」に紀行文とともに載せた「豆焼沢遡行」図である。
栃本に宿し滝の左岸高くに沿う瀧川林道を歩み豆焼沢に入つたのであった。
が…迫る日の暮れと降り注ぐ雨滴に
「激しい憂鬱に襲われて仕舞つた。」とあるように、豆焼の大滝を見ることなく顕著な枝沢の入る二俣
から雁坂路へと尾根を登ってから下り辿って栃本へと戻ったのであった。
豆焼の大滝の下に立った時、如何な感慨の嘆を述べたかが伺え知れず実に残念である。

 豆焼沢の命名の由来について書かれてある。
「いつの頃とも知れない或る年の冬であった。
 何か深い仔細のあるらしい二人の旅人が腰をも埋めるような雪の中を、甲州から雁坂へ越して来た。日の目も届かない武州側の密林で、
 いつしか徑を踏み迷ひ、深い谷底に行き暮れてしまった。辛ふじて焚火を起し、猛烈な寒気を凌ぐことは出来たが、この時己に命と頼む
 食糧はどこかで落して仕舞つて居た。咽喉へ通る物とては一人が懐中して来た、数十粒の豆ばかりであつた。これでも無いよりはましだ
 と丹念に一つゞつ焙り始めた。けれど一人はどうせ決つた運命だ。今更そんなものをどうするかと更に食はふとしなかつた。
  山麓の猟師某は、今日はついぞ小鳥一羽さへものにならなかつた。ふと彼の目は本能的に輝いて、ぐいと十二瓩の火縄筒を取り直し
 た。大木の根方に蠢く黒い影を發見したからだつた。併し次の瞬間それが人間であることを見定めた彼は、事情の何であるかを直覚して
 駆けつけた。
  消えた焚火の傍に、旅装束の二人が横たはつて居た。一人はもう縡切れて居たが、他の一人は、一婁の命脈を保って居た。
 勝手知った彼は、近くの岩穴へ連れて行つて種々手を盡したところ、幸い蘇生した。」 この助かった方が豆を食った旅人であること・・・。

 私が始めて豆焼沢に訪れた時は既に工事は開始されていた。
川又から先が工事中で滝川左岸に沿う森林軌道を今の天狗岩トンネルの辺りに登り上がりトーバク沢の辺りまでは工事測量なので人夫道
を『すいませんね・・・ お仕事の中をすいませんね・・・』云い身を縮めながら歩いた記憶は今も鮮明に残っている。
不思議に、谿の様子が如何であったか…は記憶が薄い、多分「二尺の大岩魚が棲む」との当時の喧伝で竿を出すに夢中だった為であろう。
無論のことか、二尺の岩魚が釣れたことは無かったし尺三寸が精一杯であった。 これは己の釣り腕の儚さの故であろう。
工事が進み、トーバク沢の出合いより下流は長年に渡って「死の谷」と化してしまった。 これも、今や遠い昔の儚い夢となってしまった。

誰も居ない出会の丘

 
誰も居ない・・・車も無い・・・。

休日であれば沢屋さんが勇躍して居るか、「○○に入谷」と書き記
したメモをフロントガラスに貼った車が数台は停められてある。
また、シーズン中であれば釣り師の姿も時にはある、が此の谿は
意外と魚影は薄い。

秋の陽は短い、トウの滝迄を左岸の杣道で割愛することにする。
建物の裏手を廻って山葵沢を渡りヘリポートの下からパイプ橋を上
がって杣道を辿る。


振り返ると豆焼の大橋

 
出会の丘から眺めると真下に豆焼沢を跨ぐ豆焼の大橋が望める。
渡るは国道で直ぐに奥秩父トンネルに入り出た処で雁坂大橋を渡り
雁坂トンネルにと潜り込む、トンネルの先は甲州だ。


此の夏の日、あの山の向こう奥の渓谷で遭難した女性を救助に向か
ったヘリコプターが墜落した、そして事故に関連した人達含め9名も
の尊い命が失われたのだった。
ご冥福を祈り合掌したい・・・。

トウバク沢に向かうパイプ橋


ほんの暫くは九十九折れで急登して小尾根に上がる。
道は明瞭で登りの悪場にはパイプ橋が設けられてある。
此の道は、先のトーバク沢の水量観測機器を演習林従事者が
往来する道である。

向う左手は豆焼沢へと急落していて、足を滑らせれば数百b
は一気に谿床まで落ちることだろう。

耳を澄ませば渓声と豆焼橋を渡るトラックの音が聞こえてくる。

岩尾根を越えると道は平坦になって、間もなくトーバク沢。

谿愛人の慰霊碑

杣道は序々に下ってトーバク沢。

沢の手前に谿愛人の慰霊碑が在る。
「平成七年 此処トウグリ沢源頭で永眠ス」 とある。
平成七年の頃はここらは隧道関連工事の真っ最中だった筈だ、
源頭とあるからには、もっと上流でのことだったのだろうか。
何時ものことで、黙祷して故人が愛煙家であったかは知らぬが、
煙草を一本手向ける。


人工谿のトーバク沢

トーバク沢は変り果てた。
此処の右岸に工事用のトンネル口があり、長大な雁坂トンネルの
開削残土を運び出し此の谿を埋めた。
その以前は、此の辺りは岩魚の天国で沢山に遊んで居たのに・・・。

トーバク沢は幾もの呼び名が有る。
 トーバク沢・トウグリ沢・トーガク沢等々だ。


トウの滝に向かう朽ちた木橋


トーバク沢を見送ると杣道は幾分と心細くなってくる。
が踏み誤ることは無い、他に踏み跡が無いからだ。

気をつけねばならないのは所々が崩落していることと、場所によって
スズタケが繁っていて、なにやら熊の出そうな雰囲気でもあるのだ。
用心に越したことはない、熊除けの鈴を高らかに鳴らす。

こんな朽ち木橋は、少々巻いても渡らぬが無難。

進み行く程に渓声が大きくなり、やがて谿に降り立つ。



二段構えのトウの滝

原全教の遡行図中に「幅廣キ二段の瀑」と示されているのが此処。
6m程の瀑が二段で美事に構成されていて、一段目の釜は深い。
誰が積んだのか小さなケルンが建てられていた。

原全教は沢通しで遡って来た訳だから此処からは同じ谿間を辿る。
栃本を早朝に発って午後の二時十五分の頃の此処に着いたのだ。
「下方のものは、淵の横から瀑の右へ攀ぢ、中繼の釜の咲イを傅つ
 て左へ移り、上段の飛瀑の左方を危なげに通過する。」
とある。

とてもにそんな芸当は出来ぬので左岸に移る杣道で右下に二段瀑
を見下ろし乍ら越える。



右岸左岸から枝沢が合う十文字の場

トウの滝を見送ると杣道は谿間から少し高く外れて樹林間を行く。
林間から駆け降る小谿を跨いで行くのだがかなりの距離である。

下方の谿間は、落ち込みを連ねて比較的に穏かではある。
此の谿の特徴で岩魚の魚影は少ないのだが比較的に大物が潜む。

行く手にツバクラ山の岩峰が見えてくると道はガレ気味になって
谿筋へと降りる。
十五年程の前(平成十年頃)迄は対岸に洞窟調査の白い小屋が在っ
たのだが、ガレに押し流されたか今は無い。調査も終わったのだろう。

また、昭和の初期の頃は、トーバク沢から左岸高くの山腹を此処まで
杣道が通じていたそうだ。今、その踏跡があるのか如何かは判らない。

沢筋を少し行くと「十文字の場」と呼ばれる処に着く。
本谿を中に右岸左岸から枝谷が出合い十文字を結ぶからである。
昭和の始めの文献では「十字谷」とも称されている。

十文字の場の右岸の滝で落ち込む枝沢

左岸から段々に滝を連ねて出合うのはツバクラ山の岩峰根元の
洞窟(瀧谷洞)から湧き流れ出でたもので、約五十b程も登ると根源
の洞の入口に至り岩の亀裂から滾々と水の出る様は見事であった。
また、その脇の洞を覗けば下方に六畳はあろうかの広間が広がって
いるにも魂消た。風が吹き出て奥は迷路のように窟があるのだろう。
原全教の図中の「相當水アル澤」と示されているのが此れである。
当時では洞窟内から流れが生じているとは知らなかった筈である。

十字を結ぶ対岸の右岸の枝谿は二十b程の高みから細流を瀑で
落している。

十文字の場から本谿を眺る

此の辺り少しの間は谷間は穏かではある、が左岸は岩壁の断崖で
燕(ツバクラ)岩山から急落したツバクラ岩と呼ばれる処である。

此処で
原全教「そこでほんの義務的な食事を濟せた」としてあり
二時五十分と記してある。

流れを踏み行くと、慌てて岩魚が瀬尻から岩下に隠れる。
“私は釣り師ではない、まして熊でも鷹でもないから・・・”と和む。

二段に落るツバクラの滝

グイと右に曲る本谿を行くと6m×6mの二段に構えた釜を備えた瀑
に行く手を塞がれる。
ツバクラ岩峰の下なのでツバクラの滝と呼ばれる。
此処の一段目の深い釜壷にツバクラの滝太郎と呼んだ尺五寸はあ
る大岩魚が棲んでいたのだが・・・、今も居るのだろうか。

一段目をヘツリ上がったとしても二段目が無理で、少し戻って右岸
を垂れ下がった残置ロープで登り巻く。


見上げると燕(ツバクラ)の岩峰

ツバクラの滝の巻きの途中で見上げれば右手高くにツバクラ山の
岩の突峰が木々の間から透かし見える。

幅広の8m滝

巻き降りれば直ぐの目前に8mの巾広の瀑。

此処は左岸を難なく巻く。

姿のよい斜滝は柾小屋滝

谿はグイと左に曲がる。
曲がった処に巾広の姿の良い巾の広い10m程の斜瀑。
此の滝は、柾小屋滝と云い滝の左岸の狭い小平地に杣小屋が在
ったのだそうだ。
原全教の図中にも「柾小屋瀑」と記されている。

左岸を滝を眺め乍ら巻く、此の上にも4m滝が控えているので、その
まま一緒に巻いてしまう。

直瀑の5m滝

巻いて降りれば行く手に直瀑の5m滝。
此の辺りは谿は右に左に屈曲して2m.3mの滝が連続して、どれが
どれやら判らなくなってしまう程。

此処も左岸を巻く。

美事な簾状の滝

5m滝を巻き降りれば急角度で右に曲がり、先に簾状の滝。
見えているのは最下段で8m程だが、正面に回って見ると此の上に
三段程を連ねて15m程の落差を呈しているのだった。

原全教は三時四十五分に此処に着いている。
図中に
「白絲状ノ瀑」と示されているのが此れで「行き止まりの暗く
岩壁の迫った間に、白馬の尾を垂らしたような四丈位の瀑が落下し
て居る。右は絶壁でとても歯が立たないので左の大きな堅坑の様な
所を登る。」
とある。

巻きは正しく其の通りで、右岸の岩壁の亀裂のような狭い湿気た竪
杭の様な溝を登り途中で右手の心細い木々を伝い潅木帯へと移る。
百年近く経っても変わりないものよ・・・、と少々感激もする。
幅広の4m滝

さて、簾状の滝を右岸の溝を登って巻き上がると谿は郁分と穏か
になる。
現れた2m滝を小さく右岸で巻き行くと左岸から顕著な支谿が合う、
水量は本谿に比して5:1程であろうか、本谿は左へと曲がる。
原全教は腹痛と降りしきる雨から谿遡行を断念して此処から孫四
郎峠へと離脱した
「二流間の黒木尾根へとりついたのを気として
自から弁護しつつ、もう流を見限って仕舞った。」
とある。

時計を見ると、出会いの丘を歩き始めてから約三時間程を要した。
昭和初期の
原全教の残想と別れて本谿を辿れば巾の広い4m滝、
右岸を巻いたが降り口が急斜で立ち木にザイルを括って降りねば
ならなかった。

遡るに難儀な塞がる6m滝


右岸から岩溝を駆け下る枝谿を見送り3m程の滝を右岸で越えて、
続いて現れるのは岩テーブルから落ちる6m滝。
滝左に古いザイルが垂れ下がっているのだが、なんとも頼りない。
両岸は岩壁で登り巻けそうにもない。
なるべく体重をかけないようにしてこの頼りないザイルに縋った。

滑床に小滝を遡り上がると右岸から水量の少ない枝谿が落ち込む。
辿り着く豆焼の大滝


岩床を駆け下る流れを右に左にと行く、右岸から枝谿の落ち入る
のを見ると谿はグイと90度に右に曲がる。
曲がり出た処は50m大滝の下である。

岩壁の狭い落ち口から末広がりに落ちる4段に構えた姿は優美だ。



出会の丘から約4時間弱、辿り着いたことに安堵する。

さして深くもない壷尻に座ってザックに入れて来た寿司折を開く。
大滝を観ながら番茶で寿司をいただく、至福の刻。

しかし、秋の日は短い。
帰途に気持ちは急かされてしまう。









                     
平成22年 (2010) 秋.

逍遥 時間
         
 出会の丘〜トウの滝=1時間15分         トウの滝〜ツバクラの滝=1時間  
          ツバクラの滝〜枝谿の合う二俣=1時間分     枝谿の合う二俣〜豆焼の大滝=45分       
計4時間弱(休憩等含)
帰途 時間
          
豆焼の大滝〜ツバクラの滝=1時間30分     ツバクラの滝〜出会の丘=1時間30分       計3時間弱(休憩等含)



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