漂泊の記 居村より乾にあたり五・六町許・・・


中津川水系 居村よりへあたり五・六町許・・・・
       古金山ねて (武蔵風土寄稿ヨリ)


 「居村より乾にあたり五六町許・・・」新編武蔵風土記稿に記るされてある中津は小神流川の金山を示し書かれた文言である。
そして、平賀源内の秩父金採掘の文献をみると
「試掘に狂奔したのは、桃久保の地で・・・」とある。
“乾とは北西の方向…。一町は約110mとすれば直線図示で六百b程…。
現今に桃久保の地名は見当たらない、“桃久保とは桃ノ木窪ではなかろうか・・・” かってに推測した。

 小神流川を遡ると、小倉沢と広河原沢とに二俣に分れ、更に左俣の広河原沢に入って間もなく、大黒の地に桃ノ木窪と呼ばれ
る僅ながら水の流れる急斜の窪がある。一帯が記された「金山」なのではなかろうか。
以前から“なんとか…”と林道から広河原沢を挟む対岸の山襞を眺めていたのだが、なにしろ間に潟jッチツが操業しているので
行かれない、口を呆け開けて眺めるばかりであった。

 ところがなんと、装備屋メイさんのブログを見れば、此の秋に対岸へと渡り進んで一部を探査したとあるではないか。
コンクリートで塞がれてはいるものの採掘口らしきも見つけたのだ…とも記されている。
これは、金の亡者としては昼寝なんぞはしていられぬ…行かねばなるまいて。 何方かに先に金鉱を探り当てられては困るのだ。

 そんな訳で、出かけたのであった。 頃の奥秩父は既に冬近い晩秋であった。


六助沢出合いの片門戸
 大黒から上州の中里村へ抜ける林道を少しばかり進み行き
六助沢の出合いへ着く。

 沢が広河原沢へと注ぎ込む入り口の片門戸と呼ばれる岩峰
を仰ぎ見ながら、対岸へと広河原沢を渡る。
古の
原全教「秩父の冬旅」の文面を思い出す。
雪道をヒタヒタと歩く炭焼きの母・娘との情景を想い感慨に浸る。

 最初に此処を訪れた頃の林道は、広い木桟馬道であったが
今は開削されて白いガードレールが場違いと面妖でもある。
対岸へ渡ろうと足を浸す沢水は、痺れる程に冷たくあった。
陽も当らず、晩秋の朝風は寒くて水洟を垂らす程である。
 広河原沢を渡り沢沿いに下流へ向い行くと小平地で沢山の
石積み、古は鉱山従事者の住家であったそうだ。
大正年間の頃は、北山向うも含めれば何千人という鉱夫さん
が此処に棲み働いていたそうだ。
廃屋跡には、鍋や多くの瀬戸物の欠け茶碗が散乱して生活
の跡を偲ばれる。

 廃屋跡群の先に水の無い小さな窪があって細い鉄組の橋が
架けられてある。貼り渡した木板は既に朽ちて踏み渡れない。

廃屋群内の窪に架かる小橋

小高い場所にある立派な廃屋跡の石積み
 鉄橋を越えると、その先にも沢山の住家跡の石組み。

見上げる一段と高い処に立派な石組みが在った。
上ってみると、確りした大きい家屋の跡のようでである。
きっと、上級者の住まいであったのであろうか。

石積みに上ると、沢山の廃屋跡が目の下に望め。
やっと射してきた晩秋の陽が柔かく当たって温い。

 『ウ〜〜 ウ〜〜』
突然にサイレンの音がけたたましく谷間に木魂した。
午前八時半だ、大黒事業所の始業の合図なのであろう。
 住屋跡の石組みが途絶えても暫く進めば、
目的の桃ノ木窪へと下り下がって廻り込んで行く。

窪に降りる岩壁前にコンクリートで塞がれた採掘穴の入り口があった。
万一にも誰かが入り込んではいけないので塞いであるのだろう。
縦横ともに一bにも満たない小穴である。

“装備屋メイさんは、此処に来たのだな…”
コンクリートの奥壁を突いてみたが、コツコツと硬い音がして頑丈だ。
“腹ばって入るのかな”小さな狭い入り口だ。


入り口が塞がれた採掘穴口

中流右岸の採掘穴
 さて、窪へ降りてみよう。
この山は全てが岩盤で出来ているらしい。
窪は少しの凹凸はあるものの、一枚岩の滑メ床だ。
沢を辿る仕事道も踏み跡も無い、おまけに少し上には三bほどの
滑滝さえ見える、困難な遡行が窺われる。


 急傾斜の滑滝を捩り登ると、右岸に直径が一bに足らない円形
の穴が開いているのが見えた。
画像では見え難いが倒木の後ろ側だ。
胸踊り、中を覗きたいが、崖の途中で辿り着くことが出来ない。
 見れば、その上方にもポッカリと穴が口を開けているではないか。
此処は、上側の立ち木にザイルを結わえて近寄ることに成功した。
まったく、金探しも命がけの所業ではある。

 ザイルに縋って中を覗くが、真っ暗で何も見えない。
ザイルをベルトに結わえ、半身を穴の中に入れて腕を伸ばしカメラ
のフラッシュを焚いてシャッターを押してみた。
それが右の画像なのだが、閉所恐怖症の身には半身を入れるのが
精一杯で実に恐ろしい。

 観察してみると、穴の入り口の下側には固く土盛りがしてある。
多分、外からの雨水の浸入を防ぐ為であろう。
穴は直径が二尺ほどの円形である。
とても屈んで入ることは出来そうになく蛇のように匍匐するしかない。
何やら生温かい風が吹き出してくる。
サラサラサラ…と水音も奥から聞こえてくる。
随分と奥は深いようだ、下の穴に連結しているのかもしれない。

 兎も角に、平賀源内が掘ったのかどうかは判らぬが、金鉱脈を目ざ
して穿った穴の存在に心嬉しく満足した。

 

中流右岸の第二の採掘穴とその内部

上流右岸の採掘穴
 再び窪に降り、更に上流を目指した。
上流は、殆ど水流は消え緩斜の滑メ床が百b以上も続いていた、
沢床を歩くのはツルツルの陶器の様で実に滑り易く困難を極めて
一歩を誤れば遥かの下にまで滑落することであろう。
そして、遂に扇状に岩盤が行く手の半円形に広がった下に着いた。
まるで茶碗の底に立つ様で、とてもとても登れるものではない。

 されば…と右岸高くを眺めれば、
取り巻き屹立する岩壁の根に大きな穴が見えた。
途中は急斜のザレ場だ、二歩登っては一歩を滑り下がった。
それでも、何とか穴に辿り着いた。
此の穴は大きくて入り口は屈んで覗けるほどである。
中に一間も入ると、奥はやはり一bに満たない丸い穴がポッカリと
奥へ奥へと続いているが、奥へ進むのは恐くて止めた。
カメラを構えたがシャッターが切れない、電池切れだ。

フト、右手斜め上に目をやると十bもの先の上に大きな穴がある。
 穴の高さも一b半程もありそうだ。其の穴に行くことにした。
前面は斜の岩床に薄く土砂が乗っているだけだ。
踏み込んではみたものの、グズグズと脆く滑る、これは怖い。
途中でチョッと下方を見たのがいけなかった、一歩滑れば五十bは
あろう窪床に一気に滑落する。
足が竦んで立ち往生してしまった、こうなると何ともし難い。
此の穴の探査は断念せざるを得ない、“いや…”それどころではない。
 さて…、困ったことに動きがとれない。
落ちれば、間違いなく沢床に打ちつけられて没するであろう。
そして“我が亡骸は、見つかることなく、これから降る雪に埋まって春
を迎えるのであろうか…殺生な…”そんなことすら考えてしまった。

 この後、ザイルの先にカラビナを付けて五b程先の立ち木に何度も
何度も放り投げ遂には絡めることに成功してこの何ともし難い恐ろしい
窮地を脱したのであった。

 此処からの帰路、この恐怖体験に怯えて上に上にと岩尾根に登り、
三角点のある下方百b位の北面を横に巻いて二時間ほどの難行苦
行の末に六助沢の対岸に下り立ったが、“あぁ生き延びた〜”大きな
溜息が出た。

上流右岸の第二の採掘穴


さて…、探査の結果をまとめれば。
此処は間違いなく風土記稿の云う処の「金山」の一角である。
確認できた穴は六穴だが、人為的な岩の窪みや亀裂も多数あり相当穴数はあるようだ。
今回の穴、全てがマンホールほどの穴径で腹ばいでなければ入ることはできない。
入り口の少し奥には土砂や水の浸入を防ぐ為か土を硬く固めて土留めがしてある。
穴は全てが横穴で縦方向に穿たれた穴は無い。
奥は深いようで僅かながら風も吹いてくる、穴が連結しているのかもしれない。

この穴が里正繁八の先祖の穿った穴なのか、平賀源内の手によるものなのか、はたまた、判らない。
また、本窟なのか試窟穴なのか、それとも水抜き穴なのか、それも判らない。
残念ながら、今回は(も)「金(自然金)」を手にすることは出来なかった。(大黒坑で自然金が発見されたのは、事実である)
只、辿り着くに困難で身の竦む恐怖を要す、が金に関る浪漫は得られた…と自らを慰めることにする。

備忘の為に、概念図を描いておきました。
(注)
最後の穴からの上に巻いた戻り朱点は、道ではありません。絶対に使えません。脆い岩盤と岩峰の突頂で転落したら絶命します。
万一、数寄者がいらっしゃったらいけませんので。



                                                    
平成21年(2009) 晩秋.

 桃ノ木窪の金採掘穴跡を探査してから半月程経った頃、砂礫の採集に出かけた。

 中津の大黒付近はもう初冬の気配であった。
“もう少し厚着をしてくればよかったナ・・・”鼻水を拭いながら広河原沢を渡って桃ノ木窪へと向かった。
今日の予定は、数箇所の土砂を採取することである。
尚、採掘穴は延べて六箇所が確認された。

平賀源内は、
「中津川村落の桃久保という山を三七〜三八間掘った。左右はすべて堅い岩である。中に一筋のサラサラした砂が走っている。
これを「ひすじ」とも「つる」ともいう。これを堀り、この砂を水とともに鉢に入れゆすると砂金と砂が分離する。砂を一斗ほどをで砂金
を一匁二分を得た」とある。つまりは、「18?の砂から比重選鉱法で4.5gの砂金を得た」というのだ。

冬日の当たらない北向きの桃ノ木窪に入り込んだ。 いよいよ落ち葉の積った滑メ床は、いよいよと滑って何度か転んだ。
そして一升ほどの土砂を場所を換えて各穴毎に一袋づつ、四箇所四袋を採取したのである。

ア〜新たにこの日に発見した窪左岸の有望そうな穴の中一bほどのところの土砂。
イ〜前回に覗き込んだ穴の中一bほどのところの土砂。
ウ〜上流の滑メ滝の浅い壷に溜まった下層の底土砂。
エ〜下流の流れの澱んだところの下層の底土砂。
 (どれが何処とは、此処に明確にしないことにする。 もしも、どれかの袋から沢山の砂金が採れたとしたら・・・これは内緒にせねば。)

ザックは満杯で重くそっくり返るほどであったが“金が多けりゃ多いほど重いんだから・・・”と思わず知れずに笑みもこぼれ鼻歌もでた。

“幾分とホラ吹きの源内ほどの量ではないにしろ、数cの砂金はあろうかや・・・”と、期待の憶測に胸は膨らむばかりなのです。

 さて、如何様にして分別選鉱しようか…。
それとも、石鉱物好きの人(近所のラーメン屋の主人だが)にお願いしようか…。
いや待てよ、そんなことをしたら幾らかは掠め盗られてしまうし場所を知られてしまうではないか…。
などと、今は嬉しく思案中ではある。

儚い「夢ごと」にお付き合い、ありがとうございました。


戻 る

inserted by FC2 system