爺 漂泊の記 惣小屋跡を辿る
大洞川水系 惣小屋跡を探し辿る
惣小屋は惣小屋沢(谷)の名のもとなのだそうだ。 いったい 惣小屋は、何時は 何処に在ったんだ!。この疑問を少しでも証し確認したいものと、出かけた。 朝、七時少し過ぎに荒沢橋の広場に着いた。 毎日ショボついていた梅雨も今日は一休みというのに、一台の車も停まっていなかった。 いよいよと崩落が進んでガレた大洞林道を“バラクチ山ノ神は、あの辺りだったか…此の辺りだったか…”と対岸の牛の背の様なバラクチ尾根を見上げながら歩んだ。 一時間ほどで松葉沢の手前から大洞川へ降り立った。 そしてメモを取り出した。「メモ」には、このように書いてある。 ------------------------------------------------------------------------------ ・昭和三年九月に秩父営林署が小屋を建てた。(B地点?) ・昭和五年の頃に、原全教によれば、は丸太組の小屋が在った。(B地点) ・昭和十三年九月の大洪水で流失したがその後再建され、昭和三十四年頃には在った。(地点不明) ・昭和三十年頃に、河野寿夫によれば、小屋跡はあったが小屋そのものは無かった。(A地点) ・昭和三十一年に、小屋は廃滅していたが旧小屋の上流に再建された。(C地点?・D地点?) ・昔は三ッ釜の近辺に小屋は在った。(D地点?) ------------------------------------------------------------------------------ この「メモ」は、発行書籍などで知り得た惣小屋に係る記述(最下段に記)を要約したものであった。 取り敢えずは、A・B・C・D地点など付近を歩いてみることにした。 |
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“あれ! 惣小屋沢の流れが変わっている” “確か去年に来た時は、も少し上でに二手に分かれて流れ込んでいたんだが” 大洞との出合いは以前よりも3〜40mほどの下手に変わっていた。 “そうか 去年の秋口の大増水で変わったんだな” その以前の出合いの対岸に木橋用の五bほどの丸木がロープで括り付けられてある。 その昔、此処が甲州へ向かう大洞林道の本線だった頃は “多くの人々が渡ったんだろうな”思うと流れ失って欲しくはない。 “サァ〜テ っと” 惣小屋の跡地らしきの場所の在り処を 確認しておかねばならない。 少し戻って、低い堰堤上で珈琲を飲みながら、再びメモ帳を開いた。 成る程、成る程・・・。 “サァ〜テ ドッコラショ・・・” そろそろ出かけようか。 |
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A地点に行ってみよう。 大洞川の低い最終堰堤の右岸の小平地だ。 ふむふむ・・・小屋を建てるには絶好な場所だ。 酒楽会の nagaさんが、古いトタン板を引っ張りだした処だ。 円形の石置きは、最近に誰か火を焚いたんだろう。 前の谷川が増水したってヒョイとバラクチ側へ逃げ登れぁ難はないし。 アレ、向こう端に古い柱が立っているぞ。 |
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古い道標の柱だ。 その向こう側に降りてきている杣道はバラクチ山ノ神から来た道だ。 なになに「奥秩父 大滝村 ○○○」と書かれてある、○が見えん。 下に案内板が落ちているではないか。 此の茶色の下地に白色で書いた字は、何処かで見たのと同じだなぁ。 何処だったか・・・。 そうだ、滝川の左岸道の八丁坂の先に「釣橋小屋ー栃本」と書いてあったのと同じだ。 朽ちた木っ端で文字は読めないが「将監峠ー三峰」とでも書いてあったのかもしれない。 |
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B地点に行ってみよう。 仙波尾根側に渡らなくちゃ、大洞谷は平水だからソックスで沈はしないし。 此処か、チョッと狭いけど二間に二間半の丸太小屋なら充分の広さだ。 上方に浮石は無いし俺でも此処に建てるかもな、増水したら渡れなくて帰れなくなって しまう心配があるが。 建てたはいいが後で、大洪水で流れちまった…と云うんだから、きっと此処だろう。 |
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C地点に行ってみよう。 記録によれば、洪水で流失したんで上流に立て換えた…とあるんだからっと 此処だな。 オオ・・・、好い台地じゃないか。 一段と高台になったし、上流側が岩壁になっているからどんなに水嵩が増え たって心配なしだ。 土台石があるじゃないか、それに古い真鍮のボールも半分埋まってたぞ。 此処に小屋が在ったことは間違いないな。 |
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D地点に行ってみよう。 此処は少しく上流になる。 大洞谷の流れは大きく湾曲をして穏やかな瀬で上流へ向かう。 右岸が抉れた様な処え来ると、様々な古い一斗缶だとかガラクタのような物が落 ちている。 装備屋メイさんが“バラクチ尾根の途中の廃小屋から落ちてくる…”と云った処だ。 その先の流れが左に曲がる処に二段の台地状の平地はあった。 コレァ 好いところだ。 二段の下段も広いし、上段も広くて心持ちがいい。 小屋を建てるには絶好の場所じゃないか。 明らかな人為的に運ばれた平たい石や錆びて原型のない鉄片などもあって小屋 跡なのに疑いもない。 |
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サテ…もっと上流へ行ってみようか。 両岸が岩場になってきた。 落ち込みと云うより少し高い小滝が三段構えにある。 その、それぞれが大きな深い淵を成している、三ッ釜と呼ばれる処だ。 以前(二十年ほどの前)には丸太の浮橋がワイヤーで括られてあったのだか、流され てしまったのだろう今は無い。 右岸を高く登ってルンゼ状の枝谷を二本越える。 最後に短ザイルを出して三bほどを降下しなければならなかった。 荒れ気味で大渕の続く谷を遡った、が両岸に台地も平地も無い。 ややあって左岸から川胡桃沢が段々に滝を架けて落ち込んでいる。 此処から先は、両岸の岩壁が高く狭まって険悪なキンチヂミの通ラズが始まる。 ここまでだな…。此処から先は小屋なんぞ掛ける余地は無い。 “何処もきっと惣小屋跡なんだ。 俺の惣小屋は、原全教が岩魚釣師の親父から岩魚汁を馳走になったという小屋 なんだ。 原点は其処なんだ、それでいいじゃぁないか。” 惣小屋跡を訪ねるのは自分勝手に決着させて、終りとした。 平成21年(2009) 初夏. |
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(追)昭和の初期に営林署によって建てられた小屋はそれ以前から在った小屋跡に建てられたのだろう。惣小屋沢(谷)の名の由来の惣小屋はもつっと昔なのだが、 バラクチ尾根の北端を通う大洞林道支線から、渓谷の北岸に沿って開削し通された新大洞林道によって、その途をなくし半世紀弱を経なんとする今、 小平地に面影を残すのみに廃滅いたしました。 その間、大洪水に遭っては流され壊れ幾多場所も変え再建もされて、杣人の一夜の宿として尊じられ愛されてきたようです。 此の地に営々として棲み暮らしてきた岩魚達、小屋と同じ運命を経ぬよう久遠に・・・と、ただ願うばかりです。 |
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(参考文献記述) 「惣小屋は惣小屋谷と本流出合に挟まれた平地に建設せられ、丸太組で二間に二間半位、海抜約1000米で、周圍を樹林に圍まれて暖く叉その割りに蚤も居ず清潔である。 水は直前の大洞本流を汲むので豊富であるが、薪は流木を拾ひ集めなければならぬ。 この小屋直前の丸太橋は、水面より三尺位しか離れていないから豪雨の時などは往々流失することがあるので、渡渉不能となり、將監峠まで引き返すと云ふ場合も起るのである。 くれぐれも注意せられ度い。 現在の様なよい小屋は近年の建設に係るが、単に小屋場として或は掘立式などの起原は随分古いもので、獣獵、漁獲の好根據地であった。」 (昭和五年前後に原全教氏の記述より 奥秩父 原全教著 朋文堂 昭和8年7月発行) 「惣小屋沢出合に昭和3年9月秩父営林署が建てた惣小屋は昭和13年9月1日の大洪水で流失し再建したものです。」 (奥秩父 朋文堂・マウンテン ガイドブック シリーズ 昭和34年第8版) ※この情報は「酒楽会ホームページ」様の記述から引用させていただきました。 「ここには小さな石の祠が置かれていて、バラクチ山ノ神と呼ばれていた。ここを乗り越すと道は下りとなり、やがて大洞本谷の沢音がしだいに大きく聞こえてくるようになると、 流れの手前の右側に惣小屋が現れる。秩父営林署の建てた小さな小屋で、当時地元のイワナ釣の人達によく利用されていたが、今はない。」 (河野寿夫氏の昭和30年頃の紀行文より 回想の秩父多摩 河野寿夫著 白山書房 平成11年2月発行) 「大洞川の源流近くで二分する、井戸沢と惣小屋沢の二岐にあった小屋は廃滅して久しかったが、この程旧小屋の上流に再建された。大きさはほぼ同じ位で無住、目下人夫 が入っている由。」 (山と渓谷 六月号 奥秩父特集 山と渓谷社 昭和31年6月1日発行) 「本谷は三ッ釜で右岸に川胡桃沢を合わす。昔はここに惣小屋があって惣小屋沢の名の元になったところだ。」 (秩父 つり人社 平成6年5月発行) |