漂泊の記 山腹を辿って不輪名倉ノ大滝を観に行く


大洞川水系 山腹辿って和名倉ノ大滝



和名倉の大滝 2段40M
此処、大滝は和名倉沢の流程の丁度中間に位置する“通ラズ”の中、水量多く豪壮な滝。

 和名倉沢は、鈍重な山容の和名倉山(2036m)を源として北西方へ大洞川の最も下流へ注ぎ込む谿です。
悪絶さで名の高い大洞谷、注ぎ込む多くの支峪の中でも屈指の険谿。遡行は急斜に駆け下りる流れを遡るは厳しく苦しい行程なのです。
上流にまでも棲む岩魚との出逢いを求める“釣り人”は、竿を出すのも儘ならず必死の形相で幾つもの滝・滝の連なる瀑流帯、滑床のトヨ、両壁迫る峡間
のゴルジュを行かねばなりません。そして氷谷の出合いで一夜を過ごし、夜明けとともに疲弊した己が体を引きずって更に上流へと遡るのです。
そして、絶悪な“通ラズ”を向かえます。何ともし難い滑の瀑流れを巻き行けば、行く手に立ち塞がる大滝に吐息をつき、驚嘆し感動するのです。
しかし、奥秩父で釣りを語る者は此処を完全遡行することが暗黙の義務なのです。げに凄まじきかな、“釣り人”の業・・・それが山釣り人の勲章なのです。
そんな谿、昔日の杣人達は厳しい谿を避け山腹を高く高く巻き行き、此処、“通ラズ”へと降り立ったのです。“通ラズ”の中の核心に大滝が在るのです。

雲取林道からの降り口 大洞川への降り口。
 二瀬ダムから登って来た雲取林道の分岐、舗装された道は三峰神社へ
と向かい更に林道は荒れて大洞川の中流へと続くのです。
此処の分岐には広場があって駐車できるのです。
対岸に望める和名倉沢の深い山襞は霧に煙って良くも見えません。
装備を整えて舗装道を100m程も戻り降りると、カーブの処に幾つもの看板
看板を見れば「増水注意」「山火事注意」「カモシカ保護区」「熊出没注意」
「道迷い注意」「事故多発区域」「危険山域」等々とこれでもかと、姦しくて。
諸々の管轄のお役所さんが建てるのでしょうか。
此処ガードレールの切れ目が大洞川へ、そして和名倉沢へ向かう降り口な
のです。
 降り口からは転び落ちる程の途を降るのです、疲れての帰りの登りの
辛く、難儀さがつい思いやられるのです。
降り行けば少し平坦になって二股、一方は和名倉沢の出合う大洞の本流
へと降りる途。
沢屋さんの行く途で釣り人には無理、出合いから雄滝雌滝のある厳しい処
滝を攀り沢を跨ぎと、とても我の向かう処ではないのです。
また、大洞川の本流を遡る人は降り行くのです。

二股を上流に向かうと大洞川を渡る吊り橋へ着きます。
15分程の途程でしたが帰りは倍の時間と疲労かとまたも慮ってしまいます。

対岸へ渡る吊り橋 和名倉沢へは大洞川を渡る。

穏やかな大洞川下流 吊り橋から見下ろせば。
 ユラユラと揺れる吊り橋から大洞川を見下ろせば。
上流の大洞谷・井戸沢の悪絶さを想像できない穏やかな流れです。
4〜5km程の上流に大洞ダム湖があって取水、水量が少ないのです
が雨後の増水時は良型の岩魚の出るところです。
また、5月の中頃に覗けば、数万匹のウグイが産卵の為に腹を真っ赤
に染めて遡上し行くのです、それはそれは見事な有様です。

谷風が心地良くて此処の場に、何も考えず一日過ごしたくもなります。
そうそう、この吊り橋の板下にスズメ蜂が巣食うことがあるのです、注意し
なければいけません。
 吊り橋を渡って対岸へ。
スズタケの繁った途を行くと、途傍に慰霊碑がひっそりと建っています。
「山は国界に属せりといへども 山を愛する人に属せり」と彫られてあ
ります。昭和61年、享年26歳・・・と。
此処の奥域で遭難された青年の鎮魂碑です。
何時も、綺麗にされてあります。
手を合わせ“今日は、大滝を見に行ってきます・・・。”
今日の安全を祈り願うのです。

青年の慰霊碑 此処の奥に散った青年の鎮魂碑。

降り立つと和名倉沢 鬱蒼として幽幻。
 やがて途は山裾を回り込むと谿に降り立ちます。
極下流の悪場を過ぎた和名倉沢が見えてきました。
それでも谿は下流の荒々しさを過ぎて、それでも2〜3mの滝と淵が階段
状に続いています。
覆う木々が鬱蒼として幽閉な処です。
ソット深淵の尻を覗くと、岩魚が餌の流れ来るのを待って定位しています。
無益な釣りは無用としたいものです、もっとも今日は竿を携えて来ていま
せん。
 フッと 立ち止まれば、緑の苔石の積み上げられた石積みです。
杣人の炭焼き跡です、綺麗に原型は保たれています。
谷川の水を汲んで珈琲を沸かしましょう・・・か。
古への想いも偲べます、しばしは茫洋として現世と決別しましょうか。

此処ら辺りの流れは白く濁っても見えます。それは、この谿の険しさ
を物語っているのです。
水は休む間もなく滝に落とされ瀑流に揉まれて己を澄ます閑が無い
のです。そんな中に営々として岩魚達は棲んでいるのです。

炭焼き跡の石積み 杣道の傍らに苔生してあって。

左岸へ渡る木梯橋 沢身を対岸へ渡り登り行く。
 一息ついて、現世を忘れ一介の“山愛人”となったら腰を上げましょう。
別界の黄泉の国へと行かれた青年も、そうであったに違いありません。
飲み残りの珈琲はサーモスに入れておきましょう。

直ぐに対岸に渡る木梯子橋があります。
和名倉沢の流れを遡るときは、此処から沢身を行くのです。
木橋からはとても苦しい登り途です。植林され手入れた杉木立の中を
九十九折れに高く高く登るのです、足弱の私には3度も4度も腰を下ろ
して休まねばなりません。
100m程も高度を上げて、谿音も微かにしか聞こえては来なくなりました。
行く手に大岩が見えてきました、もう直ぐです、あの岩上から途はやっと
に平坦になつて上流へと向かうのです。
 やっとに平坦になった杣道を暫く進めば、湿地になって小さな小屋、
小屋脇を途は続いています。
辿り行けば途傍に古い石積み、ガレの崩落を止めるものでしょう。
途から離れて登り上がってみると、幾つもの石積みです、それぞれの石
積みの上は少しの平坦になっていて古えの杣達の小屋跡です。
すでに木柱などは朽ちて無く、ただ平坦になっているだけです、回り
には無印の一升瓶や白い瀬戸物の碗が欠けて散らばっています、
昭和の初期の頃のことの名残りでしょうか。

耳を澄ませば・・・、夜に一日の山仕事を終えた杣人達の笑い声や嬌声
も聞こえくるような錯覚もします。

古への杣小屋跡 伐採の杣達の夢の跡。

石津窪の炭焼き跡の石積み 不思議なこと竈口に木が生えて。
 やがて谿音が聞こえてくると、石津窪に着きます。
杣道の渡る辺りはガレて水の流れはありません、少し下から突然に水は
噴出して派生しているのです。
途傍に炭焼き跡の石積みがありました、不思議なこと竈口の上に木が生
えています、杣が此処を去って直ぐに芽生えたのでしょうか。
木が此の炭焼き跡を何時までもと守っているようにも思えます。

そうそう、随分の前に此処の上方に熊が歩いているのを見て仰天したことが
ありましたっけ・・・。
そのときは、一目散に杣道を駆け降ったものでした。今日は、呼子の笛を
何時もより長く長く「ピィ〜ピィ〜ピィ〜」と吹き鳴らしました。
熊は山の住人、我は闖入者、仕方もありませんが出逢いたくはありません。
 杣道を登ると小尾根のコルです。
此処に山の神が祀られてあるのです。他の処は知りませんが奥秩父の
山の神は、皆な同じ形ちです。上物(屋根)がとても大きいのです。
要は、頭デッカチなのです。
古へは寄り詣でる杣も多くあったでしょう、今は時々“山愛人”が通る
だけなのしょうが、安全を見守っていてくれます。
近くに寄って参ずれば、その加護を感じて力強く安心も致します。
嬉しいことです、石板の上には一円玉・五円玉・十円玉と幾つも供え
られていて、通る人の心根が暖かく伝わります。
用意してきたご酒を、その重々しい上物からたらふく掛けてやりました。
此処が行程の丁度中頃でしょうか。
此処で一服です、サーモスの珈琲もまだ熱いのです。

小尾根の山の神 杣人達が今日の安全を祈願した。

10Mの滑の連滝 沢身は滝の連なる滑の瀑流帯。 
 平坦に上流に向かっていた途もだいぶ荒れてきました。
山腹が急斜でザレてます、踏み跡も判り難くなってもきました。
何方が設けてくれたものか、所々に在るトラロープに縋って辿ります。
行くにつれて瀑声凄まじく他一切の音を掻き消すほどに、恐る恐ると
下を覗けば、幾つもの滑メ滝の架かる瀑流の上に10m程の滝が二段を
構えているのです。
以前に沢身を忠実に遡ったとき、右に左に巻き上がり、遂には登る術な
く踏み跡を巻き登った処かやァ・・・と、竿を取り出すことも出来ずに肝を
冷やし続けた釣り遡行の時のことを思い出しました。
兎にも角にも、落ちれば黄泉への入り口なりと、必死の形相で木々に掴
まり行くのです。
 やっとに僅かな踏み跡は沢身へ降りて行きます。
降り立った処は、先の滑滝の落ち口、“如何な光景かナ”とザックを降
ろして傍に立つ木にザイルを結わえて覗き込んで見ました。
白い飛沫を飛び散らして、凄まじい勢いで滝が連なり階段状に足元か
ら50mはあろう程下に落下しているのです。
写真を撮るのを忘れて退りましたが、再び覗く勇気はありません。

滑滝の落ち口 途は沢身へ降り立つ。

穏やかな峪 沢身に立って上流を伺えば。
 上流は・・・と見れば、うって変わって穏やかな谿相で安堵もします。
先の此の下の瀑流と連滝で50mほどの落差を整えているのでしょう。

此処からは谿中の沢身を遡らねばなりません。
地下足袋に草鞋をよく水で湿して、足固めをしっかりりとしなければな
りません。
装備を確認して、しばしの心地よい休息です。
流れ筋の横の溜りには一寸ほどの岩魚の稚魚が驚き慌てて隠れます。
今年に生まれた子供らは、“得体の知れぬ魔が現れたわいナ”と思って
いるに違いありません、“何故にこんな厳しい処に生きねばならぬ・・・”
と不憫にも思わてしまいますが、それが自然の生業なのでしょう。
 さて・・・、帰りの登り口の目印を木に付けて、上流へと向かいます。
在るや無しの踏み跡は細々と上流へと続いています。
途中は流れ屈曲して何度も何度も大石のゴーロの中を、右岸へと
左岸へと渡り返さねばなりません、とっても滑り易い苔付きの石です。
草鞋のフリクションは本当に頼もしく安心です。

通ラズへの踏み跡 峪傍をなおも続く薄い踏み跡。

ワサビ沢前の炭焼き跡 こんな処にまで、杣人の辛苦を想う。
 谿は正面の山容を避けてグイ左へと曲がります、対岸には高い高い処
から何段も滝を架けて枝沢が二本落ち込みます、その一つがワサビ沢。

此処にも古い古い炭焼き跡の石積みがあります。
こんな厳しい、こんなにも奥地に、杣人の辛苦が偲ばれます。
妻子を置いて此処に小屋掛けして何日も何日も付近の木々を伐っては
此の竈で炭を焼いたのでしょう、雨の日もあれば風の荒れた日も、前の流
れで岩魚を獲って一夕の糧ともしたのでしょう。その岩魚も、もしかして熊さ
えも話相手の友達だったのかもしれません。
そして、焼き上がった炭を背負って我が家へと帰るのでしょう、待ちわびた
妻子は夫の姿をどんなに喜んで迎えたものでしょうか・・・。
そして、杣の作った炭は甲州へ信州へと運んで米に塩にと換えたのです。

其を想うとき、遥かな歳月の流れとともに、
我と我が身の安穏さに侮蔑の念も抱いてしまうのです。
 谿は、グイと左に曲がれば“通ラズ”の始まりです。
谿は深く抉れて釜底の様、滑に釜滑に釜と瀑流でせり上がっています。
此の辺りが岩魚の止メだそうですが、とても確かめる術はありません。
とてもとても、沢身に降り寄れるものではないのです。

右岸の巻き途を辿り行かねばなりません。
が、僅かな踏み跡は千々に乱れて落ちぬよう木々に縋って進みます。
登り行くほどに、轟々と恐ろしいほどの瀑声が響き聞こえてくるのです。

通ラズの始まり 滑に釜滑に釜、とても近寄れたものではない。 

遠目の大滝 滑の瀑流を巻き行けば、大滝が立つ。
右岸の巻き途を木々に縋って、フト見上げれば水の柱。
行く手に立ちはだかる大滝が見えてきました。
和名倉沢の大滝(2段40m)に着いたのです。
釣り遡るならやっと二日目に・・・、直に歩けば3時間半・・・、感動の大滝。
春に来ても、夏に来ても、秋は尚更に、そして冬にきても、豪壮なその姿
に目を見張るのです。
 巻き途から少しでもと滝に近ずきます。
此処はかなりの難儀です。
途を外せば岩壁の上で行き詰まり。
なくとも5m程のザイルを出して確保下降しなければなりません。
寄って下から見上げれば、水は天から落ちてきて飛沫で目を開けて
いるのも難しくて、拭っては見上げ、拭っては見上げて、着いたことの
感動に浸ります。

“通ラズ”はまだまだと続いて、此の上にも、其のまた上にもと大滝は
在るのです。
暫くは、此処の有様を記憶に留めるようゆっくりと浸りたいものです。
沢屋さんは、滝の右のルンゼを登るのですが、我らには無理、右岸
高くの巻き途で巻きあがるのです、その途の途中には石楠花が群生
していて、その季節には桃の色に染まるのです。


帰り途が少し心細くもなってまいりました。
  山の神へ、青年の慰霊碑へ、
「和名倉の大滝をみてきたョ」と報告せねばなりませんし・・・。
なにより大洞本流から林道への急登の辛さがいけません。


                      
平成9年(1997) 夏.

和名倉の大滝 懸垂下降で降り立てば水は天から。

(逍遥時間)   林道の降り口〜峪合い=30分   峪合い〜山の神=1時間15分   山の神〜沢身=1時間   沢身〜和名倉の大滝=45分

(帰途時間)   和名倉の大滝〜山の神=1時間30分    山の神〜林道の降り口=1時間30分   


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