赤岩魚 赤岩魚の歴史概念の仮説・・・、
赤岩魚の歴史概念の仮説・・・、 |
赤岩魚の生い立ちの歴史を無責任に考察すれば・・・。
陸 封 | サケ科魚類の出現は、新生代第三紀の中新世であると云う。つまり500万年以上も過去の事。 サケ科イワナ属は褶曲造山活動と気候の寒冷温暖によって大海に戻れぬ一部は陸封されてしまった。 |
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派 生 | 陸封されてしまったイワナ属の一部、特に狭隘な地域ほど法則に従って色素を沈着させた。 人間にてもしかり、狭い地域で交互性の成し得ぬほど特異性が顕著となる。 かくして、荒川に陸封された種族のS.pluvius(ニッコウイワナ)は朱紅斑点を濃く現し赤岩魚は派生した。 |
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S.pluvius |
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拡 大 | いよいよ色素を沈着させて、朱紅斑点で装ったS.pluviusの赤岩魚は荒川の上流域に拡大した。 |
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自然減少 | 新生代の第四紀の前期洪積世、200万年以前の頃、秩父山塊は造山隆起した為にその勢力は矮小した。 この頃の荒川は、現在の流程と大きく異なり歪曲しかかる武甲山西方から北に向かわずに現在の 高麗川・名栗川を包括して奥武蔵を経て武蔵野から関東平地へと流れていた。 三国山方面から来る山中地溝帯から秩父凹地を南下して平野部へ注いでいた。地質学上確証されてある。 その後の中期洪積世の頃、外秩父山地の急速な隆起が始まり流れを遮断され現在の流路となったのである。 つまり、この前時代の流れによって赤岩魚は奥武蔵の河川源流にその子孫を今だ残している訳だ。 無論のこと、歪曲部以遠の種族は其の侭に残存。只、温度上昇した気候の為更に上流へと封じ込まれたのだ。 |
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分割残存 | |
↓ | 赤色帯が中期洪積世以前の荒川の流路(甲武信の礫が飯能で発見されたは有名) |
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異種混入 | 時代は大きく移り下って現代は近世。 人間の往来も盛んになって、武州と山向うの信州の交流も増した。 そして或る日信州人の一人が、彼の地に住む赤い魚S.japonicus(ヤマトイワナ)を此方の地に運び放ったのだ。 そして、此処に第二の赤岩魚が誕生してしまったのだ。つまりはS.japonicusに酷似したタイプなのだ。 かくして棲む赤岩魚は2タイプに分かれた。一方は従来からの奥武蔵タイプ、一方は奥秩父タイプである。 |
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奥武蔵赤岩魚 奥秩父赤岩魚 |
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人為拡大 | よりより も近世に至りて、人は我と共に棲む魚として、生活の糧としての魚として欲し、より棲まぬ滝上に、より棲まぬ奥域へ と捕っては移植し殖やし獲っては糧とした。彼の人々は荒川の奥域であるが為にそれは奥秩父タイプの赤岩魚であった。 こうして、奥域の峪々には奥秩父赤岩魚タイプは代を重ねて拡大繁栄した。 今も尚、とても上れぬ大滝の上、奥域の何段にも滝を連ねた瀑流帯上の狭隘な細流れ、等に棲むのは其の為だ。 |
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人為減少 | 昭和の中期に至り人間達は豊饒となり、赤岩魚のその価値は打って変わって生活の共から遊興の為の生き物へと移った。 人共は、趣味と称してゲームと称して赤岩魚達を捕獲することに享楽を得ようとした。赤岩魚達は哀れにも檄減した。 また、現代の節度のない似非職漁師?の存在もある。彼らは、在来種は天然物として料理屋等に高価売り捌くからだ。 似非職漁師の名の如くに、在来種の棲む奥域に分け入り、何の節度も無く獲り漁ってしまう。 更に、減ってはつまらぬからと、やみくもに増殖しようとしたのだ、異種の混入である。血統は希釈され駄岩魚は溢れた。 悲劇である、いかにも悲劇である。そして尚、人間の利便の為との理にてその棲む地を狭められ追われている。 とまれ数百万年を営々として経た赤岩魚達、今ここで虚しく絶えるなれば、魚ならず人間もまた哀れ・・・と云う他はない。 “人生五十年 下天の内に比ぶれば 夢 幻の如くなり・・・ ” とは敦盛だが、そう 我らの釣り人生は 蚤の糞ほどなのだ。 |